振袖火事と動物供養の両国「回向院」
1657年3月2日(明暦3年1月18日)、本郷の妙心寺周辺、小石川、麹町で立て続けに火事が発生し、不幸にも吹き荒れていた強風により江戸中が火の海となり、江戸2/3を焼き尽くす大惨事となりました。「明暦の大火」と呼ばれるこの火災原因は放火等諸説ありますが、亡くなった娘の供養のため妙心寺にて火中に投じた振り袖が舞い上がり、寺から街へ広がったという「振袖火事」の悦話が有名です。
火の粉は広大な江戸城にも降り懸かり天守閣を焼くなどし、江戸中の火災は3日間続き死者は10万8,000人にのぼりました。
江戸城天守閣跡
街中に野積みされていた身元不明の亡骸は、徳川家綱の命により隅田川沿いの地に大穴を掘り埋葬され、その地は万人塚と呼ばれます。
その塚の上に建てられた寺が、現在も両国のビル街の中に佇む回向院(えこういん)です。のちの大火や安政の大地震(1855年11月11日)の身元不明者もここに眠っており、境内には多数の供養塔がひしめいています。
以後、回向院は宗派にとらわれることなく命あるものを供養する寺として、無縁仏や動物供養を行う寺として江戸庶民の信仰を集めました。また、全国から秘仏・寺宝を集めて開帳する「開帳寺」の筆頭格となり、いわば博物館としても賑わうこととなります。
両国国技館前身の地
江戸時代には、幕府の資金集めの一環として「勧進相撲」が発展しましたが、深川八幡、芝明神を経て1833年頃、ここ両国回向院が興行地となります。1909年に旧両国国技館ができるまで76年間に渡り定場所となり、相撲の街両国の礎となりました。