招き猫発祥の地「豪徳寺」

2007年10月、CFA世界一を決めるキャットショーで、ナショナル・ウィナー(世界チャンピオン)に輝いたのは、三毛のジャパニーズ・ボブテイル(短尾の日本猫)でした。
1968年、日本猫に惚れ込んだElizabeth Freret氏によって3匹の日本猫が初めてアメリカに渡り、1971年にジャパニーズ・ボブテイルと名付けられ猫種(ブリード)として確立されました。そして36年後の今、ジャパニーズ・ボブテイルは家猫に最適な種類の一つとしてニューヨークを中心に大人気になっています。

我々日本人から見ればごく普通に見える日本猫も、まだら模様の三毛やヤマ猫のような虎柄・丸まった短いカギ尻尾など、世界的にも珍しい特長を持っています。現在の姿の日本猫は日本土着のものなのか、大陸由来なのかは定かではありませんが、五・六千年前の貝塚や、弥生時代の遺跡から猫の骨が見つかっており、少なくとも野生猫(ヤマ猫)は存在していたようです。
日本の文献に初めて猫が登場するのは、平安時代822年頃に書かれた仏教説話集「日本霊異記」に化け猫として登場します。そして家猫として飼われた国内最古の記録としては、宇多天皇の889年2月6日の日記に、太宰府から贈られた黒い唐猫を5年に渡って大切に育てたことが書かれています。以後996年頃に書かれた「枕草子」、1001年の「源氏物語」に猫が描かれていることから、この頃には宮廷や寺院で家猫として飼うことが広まっていたと想像できます。
朝廷では、猫に正五位の位(昇殿可能な位)を与えたと言いますから、緊張感漂う御殿の縁側でのんびり日向ぼっこでもしていたのかと思うと、とても微笑ましいですね。

ところで、ジャパニーズ・ボブテイルのCFAブリード・プロフィールに最初に書かれているのは、幸運を呼ぶ陶器の招き猫。その姿は日本猫の象徴であると記述されてます。
ちょっと面白いのは、実は招き猫の尻尾はボブテイル=短尾(カギ尻尾)ではないこと。招き猫の後ろ姿を見てみると、短いながらもまっすぐなことがわかります。それもそのはず、短尾(カギ尻尾)が流行したのは江戸時代後期になってからであり、招き猫が誕生したのは江戸時代初期なのです。
そのルーツは東京都世田谷区の豪徳寺
小田急線沿線で生まれた私にとって豪徳寺は、新宿に向かう急行の通過駅でしかありませんでしたが、実際に訪れてみると、世田谷の反映の礎となった中心地であることがわかります。

世田谷の歴史

招き猫の悦話とともに世田谷の歴史を紐解いてみたところ、意外な人々が歴史を刻んできたことがわかりました。
豪徳寺は1480年(文明12年)、世田谷城主 吉良政忠によって建立されました。政忠の祖母である弘徳院のための庵として建てられたもので、当時は弘徳院と呼ばれていました。
世田谷城は南北朝時代に吉良治家によって築城され、豪徳寺のすぐ脇に今も城趾公園として残されていますが、当時は現在の豪徳寺・世田谷八幡一帯を占めていた立派な城であったようです。
ちなみに、吉良氏といえば忠臣蔵に登場する三河吉良上野介が有名ですが、吉良治家とのルーツは同じ。吉良氏は源氏ー足利氏を祖に持つ名門ですが、1349年(正平4年)、足利尊氏/直義兄弟の不和による観応の擾乱によって、直義派として活躍した吉良貞家が袂を分け、世田谷吉良氏として流れを汲むこととなりました。

以後200年に渡り世田谷の地は吉良氏が領主となっていましたが、やがて戦国時代に台頭した北条氏に取り込まれます。1537年(天文6年)、北条氏2代目氏綱の息女崎姫と吉良頼康との縁組が成立したのち、頼康は堀越氏(今川氏の一族)から氏朝を養子に迎え家督を譲ります。頼康は新たに鎌倉街道沿いにある横浜の蒔田に領地を与えられ世田谷の地を去っていきます。養子となった氏朝はその後も世田谷城を拠点としましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡、世田谷城を明け渡します。いっぽう頼康は庇護者を失い、旧領世田谷に戻りひっそり暮らしたということです。

徳川家康によって江戸時代が開かれると、世田谷吉良氏は名門であるがゆえに幕府に上総1125石の旗本として迎えられますが、本家に遠慮して蒔田氏と名乗っています。その後、元禄の赤穂浪士討ち入り事件によって本家吉良氏がお家断絶となると、再び吉良姓に戻り、明治後は領地であった千葉県長生郡睦沢町寺崎に移ったとのことです。戦国の世を切り抜け、名前を変えたことで御家断絶の憂き目に合わず、吉良の名を継承したのはなかなか天晴ですね。

「招福猫児(まねぎねこ)」の由来

さて、江戸時代に入ると世田谷の地は彦根藩主の井伊氏に引き継がれました。

いっぽう吉良氏が建立した本題の豪徳寺(弘徳院)は、吉良氏の支配力と呼応するかのようにすっかり貧寺になっていました。和尚は2、3の行脚修行(雲水修行)をしながらなんとか生計を立てていましたが、大の猫好きで、貧しいながらも自分の食料を分け与えて我が子のように猫を育てていました。
ある夏の日の昼さがり、鷹狩りから帰った五・六騎の武士が、偶然山門の前を通りかかった際、猫がうずくまって手招きしていることに気付きます。何事かと寺に立ち寄ると、突然激しい雷雨が降りはじめました。そんな中、和尚は渋茶を出し静かに三世因果の説法をしたとのことです。雷雨を免れ静かに説法する和尚と猫の因果に帰依の心を抱いた武士は、こう言います。
「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝である。猫に招き入れられ雨をしのぎ和尚様の法談に預かることは、ひとえに仏の因果に違いない。今後、更にお知り合いとなることをお頼み申す。」
そう、この武士こそ彦根藩のお殿様で世田谷の当時の領主であった井伊直孝だったのです。
直孝はその後この寺に多額の寄進をし、やがて寺は一大伽藍となり、1633年(寛永10年)、豪徳寺は井伊家の菩提寺となりました。寺名は、井伊直孝法名「久昌院殿豪徳天英大居士」が由来です。直孝をはじめ、桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼もこの豪徳寺に眠っています。

この開運を招いた猫の死後、和尚は猫の墓を建て冥福を祈り、その後この猫の姿形がつくられ、招福猫児(まねぎねこ)と呼ばれるようになりました。旧本堂の脇には「招猫堂」という小さなお堂があり、中には「招猫観音」が祀られています。ご利益は「崇め祈れば吉運が立ち所に来て家内安全、営業繁盛、心願成就する」。こうして招き猫は福を呼ぶ証として愛されるようになりました。

世田谷線 散策


豪徳寺小田急線の豪徳寺駅から徒歩15分ほどで行けますが、東急世田谷線 宮の坂駅が最寄りです。世田谷線は全長5kmを17分でゆっくり走る2両編成の小さな路線。1日乗り放題のきっぷは大人320円子ども160円、三軒茶屋・上町・下高井戸駅で購入できます。

東京で桜が開花した日、招き猫発祥の地を訪ねてのんびり世田谷線散策をしてきました。

目青不動尊最勝寺 教学院)/三軒茶屋駅 徒歩2分


徳川家光が天下太平を祈り、江戸内に赤白青黒黄の五色の不動尊を安置しました。目黒、目白は山手線の駅名にもなっていますが、目赤、目青、目黄不動もあったわけです。現在も当初の場所にあるのは目黒不動目赤不動南谷寺ー文京区本駒込)のみで、目青不動は港区六本木の勧行寺から移転したものです。

松陰神社 松下村塾(再現)/松陰神社前駅 徒歩5分


安政の大獄で処刑された吉田松陰を忍び、門下生であった高杉晋作伊藤博文木戸孝允山縣有朋らによって墓地の隣に社殿を建立したのがはじまり。写真は神社脇にある山口県萩の松下村塾を再現した家。

松陰神社へ行く途中にあった中華料理屋の看板犬

世田谷代官屋敷・世田谷区立郷土資料館/上町駅 徒歩3分


江戸時代の世田谷代官の役場。中には「切腹部屋」なるものもあります...。奥にある郷土資料館は無料で見学でき、世田谷の歴史資料を見ることができます。

ボロ市通りにある焼き鳥屋さんの猫「ブス」ちゃん(♂)


元野良猫でしたが迷い込んできたそうです。

首輪には招き猫の付いた鈴。焼き鳥屋さんの招き猫になっています。

こちらはもう1匹の飼い猫ちゃん


豪徳寺参道

三重塔

本堂

「招猫堂」に飾られた招福猫児


招猫堂の脇には、お役の終わった招福猫児たちが奉納されています。

小春日和のお彼岸ということもあってか、立派な伽藍の境内や墓所には参拝者や檀家さんが大勢訪れていました。
招き猫の願力は今も変わらぬようです。

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